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愛のために [芸術鑑賞]

ゴスペルのコーラス隊のことをクワイヤーといいます。
なので合唱隊でもゴスペル系統ならゴスペルクワイヤーと呼びます。
何も知らないで数年前に参加して幾年月。
結構、色々なところで歌いましたね。
基本姿勢としてボランティアで活動するから、歌う機会が多い。
無料なので頼みやすいのが双方の特徴になります。



ボランティアとは何かと疑問が浮かぶ。
日本文化の通念としての社会奉仕と何が違うか。
何となく思い当るのだ宗教色の濃さでしょう。
ボランティアとは神に捧げる行い、近づく行為です。
ですから近年の無宗教派系である日本文化には、馴染みが無い。
ボランティアの行為そのものが、近年、平成で顕著した行為です。


で、神とは何か?
神は愛である。
イエス以降の宗教であれば、そうなるらしい。
成程と合点が行くのがゴスペル歌った後の余韻です。
通常のコーラスと後味が違う。
神の国に近づく実感が味わえる。
同じ酸欠状態でも、コーラスとは違うのです。
思い過ごしかと思いましたが、数年の習いで確信に近づきつつある。



近年の宗教観であると、イエスの唱えるキリスト教は愛を謳う。
そのように本に沢山書いてありました。
祟り神であった古代宗教を、愛で満たしたのです。
そりゃ迫害される訳です。
人は愛を貰うのは好きですが、与えるのは苦手。
権力者にとっては奪う事が目的であるのですからね。
最近の日本の政策も健全化と言う数値に支配されて愛が無い。
世界中がそうですからね。




しかし歌っていることで愛を感じても、与える行為を無しにでは無効です。
絵に描いた餅。
空しいスローガンですからね。
難しい課題であります。
神の国へは狭い門をくぐり、険しい道程を行くとあります。
他の宗教だって皆、似たような事が書かれています。
真っ当な人には出来ない行為でしょう。




チラチラと感じる神の御世を思い歌う。
これが精一杯の行為で喜びでもある。
今はそれが実感できるばかりです。
夢のまた夢です。



悪の道に落ちぬようにするのが精一杯ですからね。





 

ミニコンサート [芸術鑑賞]

チラッと昨晩に呟いてみたりした件のお話です。
ミニコンサートに行って来ました。
先月は週末の予定が意外に輻輳していて、優先順位が下がって行けませんでした。
先月だけでなく今年はと言い換え出来るくらい行けなかったのです。




ミニコンサートは演じ手が雑多です。
プロ、アマ、セミプロとコンセプト無用で登場して来ます。
昭和のTVみたいで誰でも楽しめるけれど、マニア受けしない。
60点主義に至るコンサートですね。
観覧無料だから趣向に沿う沿わないでの苦情も評価も無い。
ただその時間と場所を楽しめるか否かです。
楽しめた者が勝者であり覇者であるのですから。




ネット時代とは、趣向に沿うものを選択して活用する行為です。
ですから一般受けと云う状況は存在しません。
個人の趣味だけが選定されるのです。
ネット経済の象徴であるロングテールの尻尾のみの世界です。
個人に沿うから一般的な思考が鈍化されるので、個人の対立が生まれる。
個人相互の葛藤しか生まれません。
データを取れば多種多様になり広範囲で、明確な軸が見えて来ない筈です。




ミニコンサートの会場に行くと中高年ばかりの人物構成です。
プロ系にしてみれば自己ファンと違う年代や購買層に訴える絶好の機会です。
気に行って貰えるかどうかは別にして、見聞きして貰えるのです。
ショッピングモールや大型店舗の催事や、路上ライブと似て非なる効果があるのです。
観客の好みに沿わなくても、お試しに最後まで居てくれる。
来る覚悟があって其処に居る人々です。
通り掛けでないから、用事が在るとか、急いでいる人を留める行為は必要ないのです。
便利でお手軽なイベントです。




そんな効果を考察しつつ、単純に楽しみに行く。
前向きとか、プラス思考の第一段階はここにあるのだと思います。
矛盾するみたいですが、好きな事だけしていると対立による不幸しか生まない。
人と人のつながりが途切れる。
昨年のスローガン的『絆』が空々しいのが今理解できる。
空しい人生を選択できる最短の方法が自立なんですからね。





見ず知らずの人と隣合いながら、趣味趣向が合わなくても楽しんで時間と場所を共有する。
不可思議な行為のイベントがミニコンサートです。



 

童心への回顧 [芸術鑑賞]

今日、TVで原田さんの話題を取上げていました。
見る度に何だか懐かしい雰囲気が湧き上がって来るのが不思議です。
福島の震災地で、原田さんの絵を見て涙ぐんでいた女性の気持ちが理解、共感出来ました。




原田さんとは、画家の原田泰治さんの事です。




自分の子供の頃には既に失われて久しい風景が、何故か懐かしく感じる。
何故なのでしょうか。
それが不思議なのですね。




プロの画家なのに子供みたいだけれど、緻密で繊細。
これが基本にあるのでしょうか。
ゆるゆるである画面構成と、曲線の緊張感の無い筆使い。
何処にも緊張感や苦悩が現れていない。
西洋絵画には存在しない描写方法だからでしょう。






画面を見ながら脳裏に子供時分の描いたらしい水彩画が想いだされました。
「ああ、これ描けばイイ。」
その瞬間に思えた。
自分の原点に戻ればイイ。
それだけなんだと思い当るのです。
必要な事柄の全ては未来ではなく、過去に残っているのです。
何かに挑んで開拓する事ではなく、失われた忘れ去られた物を取り戻すだけでいい。
気持ち事体が回帰であり、持ってる物を活かすエコである。
浪費しなくていいんだと思えたのでした。





これからは潜在意識にある、過去の記憶を探索しながら絵筆を進めればイイ。
素晴らしい出会いの気付きでありました。



何だか凄く楽しい気分です。





 

ピアノ連弾のあれこれ [芸術鑑賞]

最近はピアノ連弾が流行しているみたいです。
素人さんの耳目を集めるのも有効ですし、上手なら尚良いからでしょう。
無料コンサートに出かける場面の多い貧乏中年なので、一層機会が多いようです。




昨年、今年と色々な方々の演奏を聴いて思ったのが、楽器との相性と演奏者の相性。
ピアノの価格が安い程に、連弾の技が冴える事実。
この3点が、素人音楽鑑賞家に理解出来た事なのです。
クッキリと差が判る。



ここ数年で理解出来たのが、ピアノも弦楽器であること。
指で鍵盤を操作して、テコの原理で増幅された角速度でハンマーを動かし、鋼鉄の弦を叩く。
弦は共振対策で、複数本の張力の違う品が用いられている。
ピアノの湾曲した形は音程に合わせた曲線で、鋼鉄系の骨組みであること。
床面は共振用の木盤である事です。



これらの材料と、微妙な構成と設計思想が音の違いを作り出しているのですね。
手間と材質、製造工程で価格が決まるのです。
そして一人で演奏することが、音の決め事であること。



二人で演奏する思想が無いので、設計や構造に反映されていない事実。
鍵盤の叩く速度とハンマーの硬度が、音の大きさと反響を決定している事。
指や手首の強さと、音の強弱は密接に関係していないようです。


全てはハンマーの速度に関係する加速度と、弦の弾性係数が重要なのです。
そして消音効果と反響効果の相反する特性の妥協点。






複雑怪奇な因果が音を作り出しています。
楽器演奏は奏者の性格が表に出ますから、連弾は二重構造か二乗効果が起きて来る。
協力しながら加減調整と演出を考えてくれないと、聞いていて不快になる場合が起きるのです。
何度か嫌な音だと思った演奏者達に出会ったのも事実。
一人なら良い音でも、二人だと不快。
そんな効果が不自然に発生するのです。
演奏者と視聴者の、不幸な時間帯が生まれる場合があるのです。




練習用のピアノと会場のピアノの違いを埋めるのも難しい事です。
時間と労力に関係して来ますからね。





こんな時に、優秀な音楽プロデューサーや監督が存在すれば、指導も行き届くのでしょうがね。
アマ演奏の難しさです。
会場だって音楽に適する場所と、限りませんからね。
音楽は音源と聴取場所で違う音に聞こえるから、判断が難しいですから。





無料での演奏に耳を傾けつつ、素人では意見するようなモノでも無いし。
釈迦に説法の愚行をする訳ですからね。
玄人に方には申し訳ありませんが、このブログでの素人愚痴と読み流して下さい。




 


絵画展の作品 [芸術鑑賞]

明日に絵画教室の展覧会に出品する絵を額縁に入れて見たのです。
「いれてみた」ではなくて、入れて、見るです。
額縁と絵の関係を確認するのです。



絵を活かすも殺すも額縁次第。



画材店で云われる名言、格言です。
素人でも店にある多種多様な額に重ねて、見れば解ること。
全く違う印象が絵から伝わって来ます。
一目瞭然を体験すると、それからの判断は全てに影響を与えてくれるのです。




だからと云って、大量の色や模様にサイズを揃えるなんてプロでも無理な行為です。
予算や場所の問題もありますしね。





ですから、自宅で手持ちの額でウンウンと悩んでいました。
結論が出ないままでしたから。




描き始めてもう直ぐ2年経過します。
その間に描いた油絵はたったの八枚です。
カンバスのサイズもF6号で通して来ました。
理由は額縁の問題で悩むのが嫌での事です。



しかし今回は状況が少し違う。
初めて描いた縦書きの絵。
今までの経験や知識、感性に前例は無いしアドバイスくれる人も居ない。
全ては自己責任です。
問題点や苦悩が山積になっているのです。
ウンヌンと唸っても仕方ないこと。




判断が付かないのは、大差が無い事だと割り切って、ブログに書いている訳です。
今回が貴重な前例になったのです。
これから経験を積めば良いのですからね。






今月末週からは予定、行事が山積みで昨日からキャンセルの連発をして逃げている最中です。
明日の展示もお願いしてしまいました。
会場で先輩方に相談も出来ないから、一人で悩んでいた。
出たとこ勝負だし、先生の講評も聞けません。
初めての不在展覧です。
不安が増すばかりですからね。







沢山描いて経験積んで、知識や技能も上げて行きたい。
想いはありますが、実行が伴っていません。
課題は見えている気がしてるので、進歩は期待出来るかも知れないのです。
これからの未来の道筋なのでしょう。
一区切り入れて次回作に取組みたい。





油絵はジックリと取組めるのがメリットですが、急げないのがデメリット。
自分の中にある何かを探し見つけながら、積み上げる行為の連続。
恐るべき課題に取組める趣味なんです。




 

フレッシュな演技 [芸術鑑賞]

演劇の定説に老人と子供には叶わないがあります。
昨日は高校生の舞台を見て、そう感じました。
あるプロの演出家が言っていましたが、高校演劇は楽屋裏が面白いとか。
世代間には越えられない、冒されない境界線が在る。
何度か実感する事実でしたね。



演技を始めたのが、人生の折り返し地点だった自分には、あの世代の実感が有りません。
だからノスタルジックな気分も回顧願望も有りません。
なので冷静に舞台を観察して感じた印象が先の実感。
欠落した過去みたいな感情です。



だからと言って、何もしない分析しない訳でもありません。
自分に何が足りないか、足りているモノは何か。
感じて理解する必要性を知る訳です。



映像演技だと要らない可能性がある内容ですが、舞台演技なら必須でしょう。
主人公の一生を演じるなら、幼少から最晩年まで一人で演じ無くてはならないですからね。
以前に演技指導の先生からキツく言われていました。
でも二枚目演技は無理しなくてイイとは言われています。
リアル演劇の先生からでしたが、ちょっと悲しかったかも。

コミカルな舞台なら武器になりますけれどね〜。
何でも出来るに越した事は在りません。
際物も出来て何歩です。
そう考えています。


リアル演技の映画監督には小芝居するなと釘も刺されいます。
演技とは幅広い奥が深く多彩多様である。
困難で成しがたく捉え切れません。



高校生の演技見ながら、沢山の感情や思考が溢れては消えて行きました。
刺激になった舞台でしたね。
色々と見聞きしてインスパイヤされたい。
自分を知るに大切な行為ですからね。



 

絵の具の購入 [芸術鑑賞]

最初は12色で始まった油絵でしたが、欲しい絵の具を追加して40色になりました。
更に増えて行く気配です。



美術の教室ではパレットに色を置いて、混ぜ合わせて色を作れと云われています。
しかしウチの先生は、欲しい色は買って来いと言うのです。



混ぜ合わせて作ると、科学変化を起こして後で変色する。
混ぜる程に彩度が落ちて汚くなる。
後で同じ色が作れない。
絵の具が無駄になる。
片付けが面倒。



最後は自分の実感です。


混ぜるのは暗い絵にして陰気を誘う。
伝統の技は過去の建築構造に由来するから、現代建築で電気照明に合わない。
上手でも暗い絵は貰い手もいない。
時代は明るさを求めている。



そんな話をされます。



昨日は画材店に行き、展示された絵を見て、その話を思い返しました。
店奥の絵が面に出て来ました。
すると、光の加減で別の絵に見えた程。
光は全ての印象を変えてしまいます。


油絵は決定的に光に由来します。
実例を真に当たりした訳です。
油絵の奥深さを改めて知りました。


 

歌姫 [芸術鑑賞]

最近はラジオでホィト二ーの曲が流れています。
衝撃的に亡くなってしまい、記録から記憶になったよう。
自分と同世代だと今になって知った自分。
世間知らずだったなと感じた次第です。


改めてジックリと聞くと、当時の彼女の心情や性格が理解出来るかの様です。
若い歌姫が才能だけで突き進む情景が目に浮かぶ。
加齢して経験積んで、人を判断分析出来つつある今。
多少進歩したなと思う自己分析。



才能だけで人生を突き抜きて、一旦立ち止まる。
すると死んでしまう。
これが天才の特徴。
泳がないと死んでしまうマグロと同じです。
死にたくなければ走り続けるしかない。
これが不幸で無くて何であるか。



無用の要。


これが凡人である自分の指針。
老子の言葉です。
何の才能も無い自分を支え続けてくれています。



教室で下手な歌だと自分を辱めなくとも、伸び代が未だ未だあると考える。
歌に愛され愛するような人間は、自分のような下手凡人だけだと思うのです。
歌神の子供達なのですからね。


 

人形展 [芸術鑑賞]

近所の博物館へ人形展を見に行きました。
辻村ジュザブローさんの作品。
ガンガンと音がする位に感銘を受けて来ました。
凄まじい表現力です。



動かないのに、躍動している。
作家自ら表現するように、動かないけれど動く人形の様な表現力。
躍動感と静寂、情念が伝わって来る。



立体造形も平面絵画も狙いが実現出来れば完成なのでしょう。
ただ見とれるばかり。
自分も作品作りして行くなら、これが到達地点かと考えます。



氏も最初は役者志望から始まっています。
自分も何時の間にか身体表現から、造形表現に惹かれています。
造形表現は自分にとって原点回帰ですけれどね。



自分の活動範囲が拡散する度に、想像力が膨らみ、創造意欲が増すのです。
堪らない開放感。
この為に生きて来たかと実感する瞬間です。


 

ガンコ婆さん [芸術鑑賞]

昔で云うなら意地悪婆さんとか鬼婆とか言われる種類の年配女性。
成る程、まだ生息していたかと想い、被害者ながら笑ってしまったものです。


経緯とか説明すると、私の事とか思われても困るので書き込みしませんが、分析だけはさせて下さい。





ブログには役者目指すとか書いてありますが、その延長で脚本や小説の勉強もしています。
そのためにカウンセリング講座で、人たは何ぞ。?と考えているのです。
延長の延長で色々な手探りをしている今の活動です。
人の心理、真理を追究、分析なんぞをツイツイしています。
カウンセリングは今の所、入門講座なので心理分析はしていないのですが、本とか興味を持って読むから、門前の小僧に成りつつあるのです。
余計な考えで人を見聞きして分析する癖が付いてしまったのです。




本日の年配女性は自分が全て正しい、世界の中心に居続ける方。
人生の末期症状に、既に脳内が形成されつつある。
脳に思考の思索する部位が欠如しつつある。
己の考えに頑なに縛られて出られないし、逆切れ、激高する症状が現れていました。
呆けの進行が速い筈。
周りが振り回されて、場合によっては特別施設に近い将来押し込められる可能性が高い。
脳の柔軟性が無いからなのです。
恐ろしい老人になることでしょう。
本人より周りが不幸になると予想できます。




巷で物議を醸す老人が多いのが平成の御世。
なまじ医療の発達や生活快適の度合いが高く、免疫力の低下を近代生活が補てん補修している。
脳に刺激が不足して、余計な余暇が脳を劣化させてしまうのです。
適度な不便、不満と感動、喜びは呆けや老化を食い止める妙薬。
快適過ぎるのは良くないのです。
不便や面倒、不快を受け入れ楽しむ必要があります。
見知らぬ人との出会いや対話、自宅以外、地域以外の第三者との交流が必要です。
お金を払ってエンタメを喜ぶ受動態から発信側に廻らなくてはイケナイ。
受け入れる惰性、惰情は人を劣化させる元凶です。






自分の過失を認めない為に、顔に混乱と拒絶症状が現れていた老人。
しばらくは葛藤で苦しむでしょうが、直ぐに記憶を改ざんして自分が正しいと修正、記憶するはずです。
脳は常に自分本位に活動する傾向、癖がありあます。
動かぬ証拠は、加害者にとって偽の証拠、貶める道具を捉えるでしょう。
常に自分が正しく宇宙の中心であり、真実無二の孤高である。
これが人の本質です。
自分自身の内面宇宙は穢れなき心理の源ですからね。



そんな知識があるばかりに、被害者の自分は困ったよりも面白いサンプル見たと喜ぶ始末。
心に余裕がある場合は、面白い現象を楽しむ余裕や機会が増えるばかり。
偶然の出会いがある現実世界は空想よりズット面白い。


そんな気分で、現実より面白い空想、嘘を作り出したい。
クリエイティブとは神の創造行為を指す言葉だとか。
まさしくクリエイティブな芸術行動をしたい、今はそう思うばかり。
酷い仕打ちは避けたいですが、楽しむ限度額の苦労は味わいたい。
その履歴が積み重なってこそ、想像力の源になる。
芸術は不幸からこそ出来る唯一の道なのですね。
ああ大変な道筋だこと。!

 


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