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ガンバリり過ぎないように [お稽古・勉強]


どうも頑張り過ぎて、余計な物まで増やす私です。

頑張って良くなるようにするほど、雪ダルマ式に増える作品。
簡潔でこじんまりとしたいところですが、膨れ上がってしまいます。

文芸作品を見直す程に、文字数が増えて行くのでした。
バッサリと切り落としたいのですが、勇気が出ません。
毎度の苦悩を味わっております。


脚本作りでは、切り落としが慣れ親しんだところです。
クドイ部分はバッサリ削る。
台詞も一行にして、掛け合いを早くする。
これが出来るようになりました。

ところが文芸作品は、描写しなくちゃとシッカリ書き込んでしまいます。
読者に委ねる部分と、見せない部分の見極めが難しい。
懇切丁寧に描写書きをしています。

妙に膨らんだファイルのデータ容量みて、ガッカリしているのです。

少し時間を空けて、冷静になってから手掛けた方がいいみたい。
今回の修正分を印字して、赤をいれたいですね。
手直しは今日で止めます。

同じプロットを元にして、倍チョットくらいの作品も書いてみるつもりです。
短い作品と、少し長い作品との、対比をしてみたいですね。
ザックリと省いて書き進められるのか?
さあ、人体実験です。





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適正適応できるかな? [お稽古・勉強]


文学系物語の創作に、小説、随筆、脚本、戯曲があります。
映像系に近づくと、台本とか脚本、原案、プロット、シナプシスが出て来ます。

文字が文字のまま使われるのであれば、最初から小説が便利ですね。
文字が先鋭ドキュメント化すると、随筆や短歌、俳句、川柳に至ります。

舞台上での演目を考えると、演劇、能や狂言、落語、漫才・漫談、浪花節・浪曲、コントなど多種多彩。
映像系なら、映画にドラマ、CMやインタラクティブなんて新しいものもあります。
絵に進めば、漫画やアニメ、影絵、人形劇とかも考えられます。

それぞれに最適化する必要もあるし、その世界でのベテランや職人、芸術家もいます。



自分は何処に向けて立ち位置を決めたいのか?

物語創作の基本があります。
これを習得しそうになれば、進みたい道を選んで進むべきですね。
中には、学者や教育・指導者という道筋もあります。
道は枝葉の様に広がっているのですね。


自分の希望もありますし、適正もあるのです。
希望と適性が沿っていればいいのですが、反目したら最悪です。
一歩目が出ないで立ち止まってしまいます。

これが昔であれば、徒弟制があるから本人の希望は最小限で済みます。
道筋が決まれば迷いも無いのです。
自由が無いと反発する思想もあります。
とても厄介なのが、自由だと知っていれば滅私奉公も出来ます。
無為だが省けるので楽でもあります。
何でも好きに選べる不自由さはありません。

先生・師匠がいれば、世に出る機会も人脈を得るのも楽なのです。
自由は何も手にしない危険と隣り合わせ。

社会生活は面識の有る無しの、人脈に肝が在ると最近知った私です。
これがないと、夢見る馬鹿で終わる可能性があります。
世に為人が知れ渡ってからが、自由の発揮時なのですね。
若いと、無知で馬鹿で、どうしようもないと理解した私です。


さて好きな事に邁進出来るのは基礎編までです。
その先を見据えていないと、体験学習して終ってしまいます。
自分は何者になりたいのか。
何処へ進みたいのか?

あれも善い、これも良いなんて、幼稚な妄想はそろそろ捨てなくちゃ。
確定しないと無駄に時間を浪費してしまうでしょう。



考えなくちゃ!

そんな時が近づいている気がします。
それに、今の自分に何が出来るやら?



 


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情念怨念!? [お稽古・勉強]


物語を作っていて思うのでした。
自分は男なので、女の人の内面は想像が出来ません。
でも外面は見ているので。行動は想像できます。

それと過去の映像作品や舞台作品、小説などで知る女性像があります。
誇張されているとはいえ、あんな感じかな? と思う訳ですね。

現在の停滞する経済化の女性の行動。
それとバブル時代の女性の行動。
これはつぶさに見て、体験して感じて来た経験があります。
ですから、経験や知識で想像した女性キャラを物語に投入しているのです。

最近は冬場になったせいか、気持ちが落ち込みがち。
夏場の高揚感は消失してしまったので、明るい作品は作れません。
気分が乗らないから書けないのです。

素人でありますし、勉強中の身の上です。
お題もないし、決まり事も大してありません。
依頼する施主がいる訳でもありません。
自由に書けます。
だからこそ、季節の気分が作品に反映されるのです。


前振りとして提言した通りに、作風は陰々滅滅としてきます。
やがてホラータッチになり、ホラーになることもあります。

読み手の方なら、冬場にホラーは読みませんね。
でも書き手なので恐いお話しになってしまいます。
これが発信者と受信者の違いでしょう。

春夏の頃は、自然とコミカルな楽しいモノになります。
季節の移ろいで、気分が変われば作風も変わるのですね。



昔にシンガーソングライターのインタビューで、言ってました。
夏の曲が得意な方には、冬場に夏の依頼が来る。
冬の得意な人には、夏に依頼が来る。
売り出しに合わせ、当然の季節逆転依頼です。
作る方はプロだから何とかなるのでしょうが、大変だと思います。

だから冬の曲なのに妙に明るかったり、夏の曲なのに悲しい場面だったり。
作り手の苦悩が、作品を見て感じ取れるのでした。
自分は素人で良かったです。
気分に沿わない作品を作る苦悩をしなくて済んでいるのです。


そんなことで、このところ女性が登場すると、自棄に情念的で陰湿で意固地になります。
カラッとした太陽みたいな若い女性が思い浮かばない。
真っ黒な服着て、真っ赤な口紅付けて、高圧的な発言ばかり言う人物が浮かんで来るばかり。
書いていて辛いです。

思い付かないのだから仕方ありませんが、このような女性陣が恐い恐い。
自分で書いていて背筋が凍る想いです。
近くに居て欲しくない人達ばかりです。

これをホラー風にしないで現代風に直すとどうなるのか。
登場人物が、ヒトデナシの展示場みたいになってしまいます。
昔に流行った、ハードボイルド系の作品ならOKでしょうか?


明るい物語は、菜の花が咲いてから取り組んだ方が賢明です。
作家の自分も季節商品なのだと自覚します。





 

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自制心発動! [お稽古・勉強]


心の底に臆病者が居るのです。
これを心理学ではインナーチャイルドと呼びます。
ここから心理学的な弱者の話しを書きたいと思います。

コレしようとか、アレやろうと考えても、最後の一歩が踏み出せない。
自分で希望しているのに、行動に移せないのです。
必ずブレーキが掛かってしまいます。
 
作品作りしていても、何故か思い付きを文字化できないのです。
躊躇したまま固まってしまうのです。


これに何時も閉口するのでした。
心が乖離したみたいで、動きたいけれど動けない。
動きたくない何かが見えるけれど、何故なのかわからない。
 
10年前にブログを始めた時もそうでした。
書き残したいけれど、書きたくない自分の心がいました。
でも何とか毎日書いて今に至ります。
初めて1年間位が一番情熱に駆られていましたね。

衝動的に書きたい事を書いてupしていました。

でも読者がついて来ないので、一時期情熱を失いました。
自分を誰かに判って貰いたい衝動が現れたのです。

どうせわかって貰えない。

このキーワードが自分を卑屈にしたみたい。
生きて来た時間の中で、何時度も感じて落胆した感覚です。

人には自己承認要求と云われる特性があります。
勉強した時に、コレか! と思ったものです。
今では誰かでは無くて、自分に納得すればいいと、ブログを継続しています。

ブログならそれでいいでしょう。

でも、創作活動は誰かの目に触れさせる行為です。
芸術活動でもありますから、自己表現と周知が両輪になります。
ここで周知活動に関して、過去の記憶が邪魔をするのでしょう。
自分を否定して表層意識で走り出すと、分裂症になってしまいます。
いまは統合失調と呼ばれているみたいですね。
強く出れば病気ですし、柔いなら個性です。
でも強い個性になってしまいます。
空気読まないとか、自己主張が激しいと見られてしまいますね。
協調性が無いとか、ジコチュウーとか言われて、毛嫌いされます。

そんな暗部も見えて想像できるのです。
これも創作活動する資質なので排除できません。
誰か特定の人に自分を強く肯定するか、見守って貰いたいと思えるのです。
そんな自分が弱いなと感じてすまうと、自己否定に至ります。
それで行動する気持ちと、沈静化する気持ちが衝突してしまうのです。
だから原因を作らないように、自制するのでしょう。

こうなるともう書けません。
書きたいのに書けない。

物語的には、三島由紀夫の弱法師の雰囲気になるでしょう。
見事に表現していると考えると、自分を卑下してしまいそうです。

でも自分は自分、他人は他人。
こうやって自己分析して、自己肯定すればいいのです。
心理学療法のアサーティブとか交流分析ですね。
みんなまとめて肯定したえばいい。
あるものは有るし、消えません。
一切合切、存在を肯定して判断をしない。
あるがままです。


書けない自分を肯定すると、何となく書き出せます。
自分を愛おしく認めればいいのです。
他人の評価は参考データなのです。


こして記事を書いていて、少し楽になりました。
独り自己分析と、自己セラピーの効果がありますね。

良かった、良かった。




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推敲が停滞し [お稽古・勉強]


創作した作品を見直して修正することを推敲と言うのです。
物語を紡ぐまでは知らなかった言葉です。
文学系の方は知っているだろう、業界用語でしょうか。

句読点や、手にをはを修正するのは、推敲と言わないらしいです。
筋や骨組みを正すのを推敲と呼ぶらしいです。

手書の時代は書き直しですから、大変な労力が必要でしょう。
気が遠くなるような行為です。
数カ月かけて作り上げた作品を、書き直すのです。
もう一本書くようなものです。

現在はデジタル化が主流です。
修正は手書きよりも楽ですね。
ヤル気が出たらの前提条件があります。

苦心惨憺して書き上げ、数日、数週間放置して見直します。
書き上げて直ぐですと、直す場所が見つからないです。
最高傑作を書いたつもりなので、見つけられないのです。

一年くらい放置すると、他人の作品くらい忘れています。
粗筋さえ覚えていなかったりします。
書き上げたら梗概とか、粗筋を書き残した方がいいですね。
本文を読む前に記憶の揺り起こしが可能です。
この先を思い出せないのでは、本当の他人の作品を修正するようなもの。
自分の著作を模写修正するような嫌な気分になってしまうでしょう。
著作権侵害している気分になっちゃう。

習作といえども、手書きをテキストデータに打ち込むと、手直し連発しちゃいます。
雰囲気だけ似せたまま、キャラを立てると、違う行動になりがちです。
擬似人格が、独り歩きし始めてしまうからです。
キャラの自己主張ですよね、これは。

推敲しながら、書き直しが辛くなったり、面白がったりしています。
自分の作品を読みながら、笑い顔になる。
自作自演で自分観劇して、嬉しんでいる。
幸せな時間が流れて行くのです。



 

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善いも悪いも [お稽古・勉強]


良かれと思い書いた文章も、他人様にはまた違って感じられる。
講評とはそのようなモノなのでしょう。
読み手が多ければ、公表も平均化されるものでしょう。
でも平板なモノになる可能性は高いです。

書き手の個性を何処まで活かし、どこまで平凡化するのか。
尖っていては刺さるし、棘が無くては滑って落ちる。
刺激が無くちゃ強く伝わらないし、刺激が無いと退屈。
どこでバランスを取るのか。

登場人物にどれだけ語らせて、どのくらい黙らせるのか。
どれだけ動かして、どれほど立ち止まらせるのか。
これもバランスですね~。
動き過ぎれば目に邪魔ですし、動かないと置物になる。
人は動かないモノを認識し難いものです。

動きや立ち振る舞いも文字化する。
過不足無く、邪魔でなく、引き立たせる。
文字で何でも表現し、行間に匂わせるようにできるのか?
これは技術ですね。
見識眼がないと判断できません。
経験や凡例も知識として欠かせません。

作った品がどの様に評価され、好まれ疎まれるのか。
作って見ないとわからない。
天使になり微笑むのか、鬼子になって噛み付かれるのか。
生まれて見なけりゃワカラナイ。

創作の二次的苦悩は、結果次第です。
創作の一次苦悩は報われるのか?
結果に拠りますね。




 
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声に出して [お稽古・勉強]


今のところ趣味の中で、残された活動がコーラスです。
あとの趣味は停滞しているか、放置されたまま。
体力的にも、精神的にも、もはや多く手出しが叶わない状態です。
若きし頃の様に、体も心も追従しません。
希望に沿わない身体になりました。


その歌も、今日当たりは風邪の影響で、低調な限り。
自分の歌声が、生音声で耳に到達していました。

この状態は、身体が絶好調な場合と、不調な時に訪れます。

声の勉強も十年以上していた影響で、生声を耳で聞く機会が何ども起きました。
プロのアナウンサーは自分の声に耳を向けるので、マイクやスピーカーの手助け無しに、生声が聞こえるのです。
職業的な身体能力ですね。

普段の声は、骨伝導で耳に直接届いています。
だから周囲に聞こえている自分の声は、理解している自分の声では無いのです。
カラオケや、何かのビデオ撮影、音声収録をした際に、自分の声に驚いたことがあるでしょう。
こんな声だったのかと、落胆する人が殆どでしょう。

その声が、機械を使わずに直接聞こえるのです。
今日は調子の悪い事実を、直接を確認することになりました。
調子の悪い時は、声も悪いものです。
口の中や、喉が炎症していたり、痰で汚れているからですね。
粘膜もただれて、損傷している事でしょう。

コーラスで歌いながら、ガッカリしていた訳です。
そうでなくとも、聞き取りにくい籠り系の声ですから。

十日も風邪を患っているのです。
治癒が遅いのも、中高年の特徴です。
ガッカリ感が増えるだけです。


早く治らないかな!
そのように思うばかり。




 


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憂鬱の元 [お稽古・勉強]


芝居の本番が終えてから半月経過しました。
今週一杯は気持ちが沈むか、ササクレ立つかのどちらか。
妙に気が収まらなくて、自己否定の沼に沈み込んでいたのです。


ですが、今日は久しぶりの歌の練習日。
芝居の練習や本番で、後回しにされ勝ちだったのです。
それでひと月ぶりに行って、歌ってみました。


気分が晴れやかになること。
心の奥から、湧き上がる静寂な気持ち。
心が洗い流されて、清められて行きます。
これが歌の浄化作用です。
何とも言えない、清廉な感覚。
神への身元に行く道筋が見えるかのようです。
捩じれて諍かってしまった心が、元に戻って行きます。


心穏やかに、平和に暮らすには、毎週しっかり歌わねばならないのです。
カラオケで適当に歌うのではなく。しっかりと楽譜見て歌う。
歌詞も曲も尊重して敬い、天に捧げる気持ちで歌い上げる。
自分の為でなく、天に向けてです。
祈りの歌の最大効果を得るがためです。

歌唱の勉強のために、ボイストレーニングをしても、技能が上がっても満たされた感覚がありません。
次の課題が見えるだけです。
でも讃美歌やゴスペルの曲を歌うと、効果が違います。
天を称えながら、自らを敬い愛しむことができます。
コーラスの素晴らしさは、そこにあると言っていいですね。
信心の先は何でもいいのです。
異教徒の自分が歌っても、天の褒美を頂けます。
進行の先、遥か彼方に効いているのでしょう。


歌の素晴らしさ、治癒力の強さを実感した日になりました。




 

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二度手間かも [お稽古・勉強]


誤字脱字、字が汚い、流れ文字。
これが目下一番の悩みです。

創作活動に勤しんでも、成果の出ない根源です。
基本的なこの部分は小学校以来の悩み。
そして苦情の原因です。

その対策にパソコンを導入したものの、手間が増えるだけ。
パソコンの画面見ても、創作意欲は湧きません。
気分が乗っても、滞るだけです。
文字打ちの速度と、思案・思考が合いません。
疲労感からの停滞に、気持ちがササクレるだけです。

この点、原稿用紙に手書きが気分良い速度。
そして思考と文字化の追従性も申し分ありません。
パソコンの画面を見ながら、渋面を作るだけです。
手首や指の疲労に気持ちが萎える。


原稿用紙に書いて、打ち直しましたが、これも駄目です。
気分良くないこと、この上ないのですから。


さて、今後はどのようにしたら良いモノか?
誤字脱字に注意を働くと、脳の思考停滞を招くだけ。
排泄行為の停滞は、気分を害するだけですからね。
音声入力しても、誤字は防げないでしょう。
感じかな混じりのジレンマです。
表意文字の苦悩です。

表音文字だと、文字不足や間違いが起きるでしょう。
思考と文字のせめぎ合いが続きます。

パソコンやるから、ますます漢字間違うんですよね~。



 

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心の浄化 [お稽古・勉強]


先日に舞台をやり切って後悔が無いと書きました。
ところが一年近く同じ役をしていたためか、人物像が心の中に息づいてしまったみたいです。
この役どころに、葬送の念を送る必要があります。

特に演目終了に死んでしまうから、何度も生き死にが繰り返されて来た経緯があるのです。
つまり復活するのが当然になったわけです。

昨年末には役処を思案していたら、顔に死相が出て驚いたくらい。
つられて死んでは困るので、一時期は演技の事を忘れる事に費やした位です。
演技経験の中で、演じ手が役を捨てるなんて初めての経験でした。
どうやって忘れればいいか、悩むくらいです。
だから稽古に行くのが凄く嫌だった。

稽古中も、役作りの話題に加わるのも避けていました。
更に裏役でも死んでしまう配役であったから、混乱しまくりました。
こんなに死が近い役どころも初めての経験です。
軽く考えていましたが、黄泉の国に足を踏み入れていたようです。


こんな役の呪縛にどの様に向き合うのか?
これが今回の課題だったのかと、今にして思うのです。
そして自分に対して、演技世界の役に葬送の儀を行う。
ひどく辛い気分になりました。

大雨の降る窓を見ながら、途方に暮れていたら、泪が自然に流れて止まりません。
ああ、自己浄化作用で泣いていると思ったのです。
深層心理の自分が、表層意識の自分に生まれ変わりの指令を出してくれている。


ひと泣きして思い付きました。
死んでしまう役の人に対して、突っ込んで思考をしてはならない。
映像系の役なら、早いところ一月前位で脚本が来ます。
酷い時ならその場で説明があるだけ。
何も考えないで、死んだふりだけすればいい。

でも舞台だと、何カ月も前から脚本が手元に来る。
これが自分を、彼岸に落とし込んでしまう、元凶になるのですね。
生きている人間は今を考え、死後の世界を考えてはイケナイ。
古典的な宗教は、今生きることを差し示します。
未来の事は考えるな、死後の世界は考えるなと戒めています。

芸術家の罪が深いのは、過去と未来に、生前や死後世界を思考することです。
神の怒りに触れる所業でもあります。
最も罪深い行為を出来る立場にあることですね。

すっかり忘れていました。

だから一仕切涙を流し、役処を押し流せることが出来たみたいです。
素直に千秋楽で、感動して泣けばよかった。
完璧に努力をして遣り切ったのもイケナイみたいです。
少し後悔が残る余地が必要なのでしょう。
心の余裕は、どんな場面にも不可欠だと確信しました。

これからは完璧とかキツキツにならぬよう、途中で止める勇気を持つようにします。
絶体とか完璧は破綻の呼び要因です。
もしかすると、やり過ぎは完璧超えかもしれません。
程々を学ぶ機会になるよう、心を入れ替えます。



 

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