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童話を思い出し [道すがら]

童話には正反対の物語がかかれていたりします。
『幸運のハンス』と『わらしべ長者』
発祥の国も違いますがこれほど違うかなと思うのです。
これらの物語を昨日までは忘れていた自分です。


童話にはいろいろと含んだ意図が隠れていると言われます。
だからくだらないと思っても数百年・数千年の時を越えて語り継がれる。
作家がウンウン悩んで到達した作品もその殆どは消失するのです。
奇跡の物語が童話なのです。


それで『幸運のハンス』です。
タイトルはネットで検索すると若干違いがありますが、基本は同じ。
道を進むと沢山の出会いがあり、持ち物が軽くなり最後は手ぶらになる。
『わらしべ長者』は最後は長者、金持ちになる。

何方も出会いと交渉事です。


子供の頃は金持ちがいいと思いましたが、今では逆です。
だからと言って手ぶらがいいかは別なのですが。




ハンスは最後自分を責めなくて良かったと神に感謝する。
これは古今東西の究極の気付き、解脱に通じる行為、確信です。
人が現世で苦しみのすべてを取り払った時に得る境地です。
子供はこの状態を指して、馬鹿者だと言い放つでしょう。
大人でもそう言うでしょうね。
異論はない。


財産を失って何が幸福なのだと。
それが当然の思考ですから。
欲望に忠実であるから人なのです。
無欲は神や仏に最も近いですが愚か者であるように見える。


実は昨日に完璧そうに見えるお金持ちの家族をみました。
身なりは整い何も問題はみえないように見受けられた。
ところが酷い行為を行う親であり、子供に対する処遇は虐待寸前。
愛情の欠片も見当たりません。
子供の顔は意気消沈し怯えていました。
ときおり親の行為により烈火のごとく泣いているのです。
見ていていたたまれない。
そんな家族でした。
子供はお金持ちの家に生まれ、愛情も無く地獄の毎日でしょう。
ああ、こんな家族の元に生まれなくて良かったと思ったのです。
怒りが高級服を着て歩いているのです。


地獄の使者を目の当たりにした瞬間でした。
何が起きたのかは書きません。
思い返すと頻繁に見ている光景であります。
美しい桜の元で起きていた日常の光景でしたね。
結構不変的な母親の行動ですけれど、場所と人種が違うと極立つのですね。
美しい空も花も目には入らないでしょう。
綺麗なものが綺麗に見えない時が一番の不幸なのです。




そんな日にたまたま見たのが『幸運のハンス』。
ああ何も要らないんだね。
そう思ったのです。
生き地獄より、貧乏でも今がいい。
何もなくても自分でいられれば素敵なんだ。
確信に近いモノがありました。
もう何も手に入れられずともよい。
偶然に手にしたモノが運命の品なのです。
それが一番必要なものであるのです。
これを天の施しというのでしょう。
人は一番渇望するものが、決して手に入れられぬモノなのです。
経験上断言できる格言です。




 
偶然にであった童話は、今の自分にとって必然でした。
心に秘めて今を生きるようにします。
偶然という必然を与えてくれた、見えない何かに感謝するのでした。



 


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